ピグマリオン症候群、標準化、関手嫌悪
記憶が曖昧だが、ブルーバックスのJ.L.シンジ・著『相対性理論の考え方』のなかで、著者はピグマリオン症候群という言葉を使っていたと思う。戯曲に出てくるピグマリオンは、自分の作ったビーナス像に恋をしてしまったとか。物理の文脈だと、理論的モデルに心を奪われて物理的現象を見なくなってしまうことだろう。
名前、キー、IDばっかりに目がいってしまい、実体や実体のあいだの対応を見なくなってしまうのもピグマリオン症候群と呼んでいいかもしれない。本物ではない仮のもの、代理に過ぎないものを実体と勘違いしてしまう、あるいは実体より価値あるものとしてしまうのだから。
ID(主キー)とそれによる参照(外部キー)、通信におけるキー転送は、ポピュラーで役に立つ技法だが、名前、キー、IDは本物ではない。実体がなんであるかを忘れてしまうピグマリオン症候群に陥っては、本物(実体)の世界とその構造が見えるわけもない。
ologとRDFの違いは、ologが関手を使うことだ。しかも部分的な関手(関手のスパン)を積極的に使う。関手を使わないとどうなるか? 名前と構造を標準化するしかない。ほとんど常にこの方法・標準化が選択される。しかし、自分に嘘をつかずに考えて欲しい -- ほんとに名前や構造が標準化できると思う? 今の僕は、「できる」という答は自分を偽った強がりか、幻覚を見ているとしか思えない。
名前は構造的であるべきか不透明であるべきか? 不変であるべきか、日々改善すべきか? 自然言語的分かりやすさはどう定義される? 階層化の基準は? マトリックス状の構造はどうする? 親子関係や所属関係が多重なときは? 自分に嘘をつかずに答えられるだろうか。
僕はスピヴァック流に関手を導入すべきと思うが、関手嫌悪があるのも事実。ひとつの事物にはひとつの名前(ID、キー)とかに拘るのもゆえなくもない。破綻するしかない標準化、救える手段である関手は嫌われる。「どうすりゃいいの?」とは思うが、まー、妥協点を探るしかない。