このブログは、旧・はてなダイアリー「檜山正幸のキマイラ飼育記 メモ編」(http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama-memo/)のデータを移行・保存したものであり、今後(2019年1月以降)更新の予定はありません。

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『シン・ゴジラ』 -- まーだ言いたいこと

観終わったとき、2時間の映画だったと知って、ちょっとビックリ。短めの映画だと思った。それだけテンポがいい、ダレない展開だったってことだね。

なんでツボったか? やっぱり、リアリティだね。いや、フィクションの技法としてのリアルっぽさ、かな。作り物だけどドキュメンタリー風みたいな。存在がギャグ(失笑モノ)になっちゃっている石原さとみも、「これはフィクションのエンターテイメントだかんね、デタラメだぜ」ってサインだと思えば、まっ、いいか、と。

アレが足りない、コレが足りない、は、僕はほとんど気にならない。例えば、民間企業も作戦に協力しているから、フル操業の工場とかも描くとより良かっただろう、という意見。おっしゃるとおりだけど、必須だったとは思わない。民間/民衆を描かなくても、観てる僕らが民間/民衆の立場で参加できるから、それでいいんじゃないの。

それより、ビーム出して無茶苦茶やるのはやめて欲しかった。ビームが強い! 強すぎる!! それやんなくても十分に強いでしょ。あそこまで強いと、何やっても勝ち目がない。その絶望感を盛り上げ(希望を盛り下げ)たかったんかもしれないけど、その前で既にだいぶ絶望してるから。(ビーム場面、絵としては素晴らしいけど。)

中盤で無茶苦茶な強さを見せつけるから、最後は「ゴジラさん、わざと人間に負けてくれた」みたいに思えてしまう。中盤の超絶パワーのデモンストレーションがなければ、僥倖に恵まれれば、人間でもなんとか対処可能かもしれない、という微かな希望が残り、ラストも「運良くなんとかなった」でまとまるだろう。

僕の感覚では、なんで勝てたの? どう考えても勝てるわけないだろ! 負けたふりしてもっと酷い仕打ちをするじゃないか?? とか疑心暗鬼になってしまう。

もし中盤の強さを後半まで維持するなら、やなり何やっても無理、ことごとく作戦失敗で、ラストは「理由は不明だが、とにかく去っていく。」あたりだろう。僕はそれでもよかった。結局人間は、超絶パワーの前には何もできない、気まぐれで災厄が去ってくれるのを持つのみ、みたいな結末。

仮に絶対勝てない超絶パワーでも、人間は「お祈りするだけ」じゃなく、色々とジタバタするでしょう。そのジタバタを描く、っていうのも有りだと思う。これだと、非常に悲観的で後味が悪い作品になる可能性があるから、人間ドラマだ、愛だ感動だは排除して、知恵を振り絞ったジタバタ過程をドライに追体験できるような、そんな作り。特に「リアルな人の死」をドロッと描かれちゃうと僕はダメだなー。それで気分が落ち込んでエンターテイメントじゃなくなる。

と、そんな感性だから、「愛と感動が足りない」みたいな批判には全然同調できなくて、もっとドライでもよかったくらい。「フィクションだからね、ほんとに人死んでない」を思い出させるためのギャグ(石原さん的存在)と、ドキュメンタリー風の実況だけでも満足。

ハラハラドキドキの後で、我に返って「災害対策」や「危機管理」についてどう考えるかは各自の問題であり、映画のなかで答や提言を出す必要はない。


批判のなかで、「そうかもな」と思えたのは、政府・官僚・自衛隊を礼賛、とまで言わなくてもだいぶ肯定しているよね、って話。まー、そだね。ただなー、ある程度のリアルっぽさを保つなら、個人ヒーロー、民間ヒーローはあり得ないから、政府主導にならざるを得ない。政治家・官僚をダメなヤツにしちゃうと、誰もゴジラに対応できない。

同様に、全体主義ブラック企業を肯定してるんじゃないか、という指摘。日本が大災害、国難にあったら、実際のところ官民協力して一体化するんじゃないのかな。ほんとの緊急事態なら、家にも帰らず徹夜続き、ってのも現実になる。

状況から切り離しての一般論としては、全体主義ブラック企業もきらいだし批判するけど、災害時の判断はまた別だ。災害、緊急時なんだから、いつもの主義主張を通せないでしょ。

いずれにしても、人それぞれの趣味嗜好や立場によって賞賛・批判・不満を言える程の仕上がりになっている点で、なかなかのもんでっせ 『シン・ゴジラ』。