ありのままの報告
この2つの文の意味に差はない、と認識する。「二分可能自然数」の定義として受け入れることができる。
この2つの文の意味に差はない、と認識する。「ホゲタンプ」の定義として受け入れることができる。
この2つの文の意味に差はないかどうかは微妙。「偶数」の定義として受け入れられない。
理由:「偶数」という言葉は、既に多くの人が使っていて、国語辞書にも載っている言葉だから。
「△△△とは」の「とは」の解釈が、既知(既に自分が知っている、世間でも使っている、国語辞書にも載っている)語の場合と、未知の語・記号の場合では違う。
△△△が既知の場合
△△△とは …… である。
- xは△△△である ⇒ xは…… である
はOK。
- xは…… である ⇒ xは△△△である
これは命題であり、成立することが保証されないので、証明を要する。
例は:
偶数とは2で割り切れる自然数である。
- xは偶数である ⇒ xは2で割り切れる自然数である
はOK。一種の宣言であり、受け入れ可能。
- xは2で割り切れる自然数である ⇒ xは偶数である
これは命題であり、成立することが保証されないので、証明を要する。つまり、次の命題を証明すべきである。
- 2で割り切れる自然数は必ず偶数である (証明を要する)
または、
- xは2で割り切れる自然数である ⇒ xは偶数である (証明を要する)
檜山の感想(分析ではない!)
自分にとって未知の語・記号が定義される場合と、自分にとって(他の多くの人にとっても)既知の語が定義される場合では、解釈が違う、ということらしい。
しかし、なにを基準に未知・既知を判断するのだろう?
- 「ニ分可能自然数」、「ホゲタンプ」は、檜山の造語であり、国語辞書に載っているはずもなく、明らかに未知である。
- 「偶数」は既知だろう。
- ひらがな書きして「ぐうすう」ならどうだろう?
- カタカナ書きして「グウスウ」ならどうだろう?
- 「even number」は英語で、日本人にはそれほど馴染みがなく、未知である可能性が高い。
- しかし、「even number」は、英語ネイティブの人には既知であろう。日本人にとって「偶数」が既知であるのと同程度に既知だろう。
既知/未知の境界線はどこか?
- ホゲタンプとは2で割り切れる自然数である。(明らかに未知)
- even numberとは2で割り切れる自然数である。
- グウスウとは2で割り切れる自然数である。
- ぐうすうとは2で割り切れる自然数である。
- 偶数とは2で割り切れる自然数である。(明らかに既知)
あるいは、日本語使用者と英語使用者では、同じ内容を異なる解釈をすべきだろうか? 英語ネイティブにとって、日本語文字(ひらがな、カタカナ、漢字)は全く意味不明だろう。
- a hogetamp is a natural number that is divisible by 2.
- an even number is a natural number that is divisible by 2.
- a "ぐうすう"(Japanese Hiragana) is a natural number that is divisible by 2.
- a "グウスウ"(Japanese Katakana) is a natural number that is divisible by 2.
- a "偶数"(Japanese Kanji letter) is a natural number that is divisible by 2
以前の「f(x) = x は、関数とは認めがたい、ちゃんと定義されてない」という見解と似てる気もする。
- 関数 f(x) = x2 + 3
- 関数 f(x) = x + 3
- 関数 f(x) = x + 1
- 関数 f(x) = x + 0
- 関数 f(x) = x
1番目は認められる定義で、5番目は認めがたい。そうすると、認める/認めないの境界線はどこ?
残念ながら僕には不可解なのだが、“ナニカの差”があるのだろう。
檜山の感想 2
僕の想像だから、あてにならないが。
「ホゲタンプ」や「even number」は、知らない語ゆえに、特に何の感情も湧かない。よって、冷静・ドライに定義を受け入れ可能。
しかし、「偶数」は既知の語なので、強い感情が湧き起こる。その感情とは:
- 「偶数」は自分も世間も、既によく使っている言葉だ。
- しかし、偶数に関して、自分も世間も、真剣に正確に考えたことはない。
- 2で割り切れる数は偶数だと、自分も世間も信じているが、それは経験的事実に過ぎず、真理である保証などない。
- したがって、ここで改めて、「2で割り切れる数は偶数だ」という論理的な証明をすべきである。
もしこういうことだとすると、「2で割り切れる数は偶数だ」は、自分と世間が共有している予想だと認識してることになる。予想、定義、定理はいずれも命題の形をとるが、
- 予想の真偽は確定してない。真だろうと思っている人がいるが、証明はない。
- 定義は、約束により真である。
- 定理は、証明により真である。
「2で割り切れる数は偶数だ」は、多くの人が真だと予想しているだけの予想命題ではなくて、どこかの段階で約束された定義なのだが、そうは思えない、ということなのだろう。
人が言葉にいだくイメージ・感情というものは、なかなか一筋縄ではいかない。実に複雑怪奇だ。そういう複雑怪奇なイメージ・感情を捨てた議論をするには、論理式で書くのが良いと思うが、それはそれで困難が伴う。
檜山の感想 3
△△△の既知・未知によって、「△△△とは …… である」の解釈が変わるとした場合、個人による既知・未知の差はどうすべきか?
「偶数」は多くの人にとって既知だろうから、「行列式(英語ではdeterminant)」を例にする。山田さんは「行列式」を知らない(未知)。田中さんは既に「行列式」を知っている(既知)。
檜山が「行列式とは、 …… である」という定義を提示した場合、
となると、檜山は「行列式って言葉を知ってますか?」と質問して、
- 知らないのですね。では、これで定義は終わりです。
- 知っていたのですが。では、証明しないと納得できないですね。
と態度を変えることになる。これは、「行列式」という言葉特有の問題ではなく、あらゆる言葉の定義で、「知ってますか?」の答えに応じて態度を変えることになる。
以上は、「既知・未知で定義の解釈が変わる」を反駁する思考実験なのだが、このテの思考実験を感情的に受け入れられない、とすると無力。