このブログは、旧・はてなダイアリー「檜山正幸のキマイラ飼育記 メモ編」(http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama-memo/)のデータを移行・保存したものであり、今後(2019年1月以降)更新の予定はありません。

今後の更新は、新しいブログ http://m-hiyama-memo.hatenablog.com/ で行います。

ありのままの報告

  1. ニ分可能自然数とは2で割り切れる自然数である。
  2. 2で割り切れる自然数をニ分可能自然数と呼ぶ。

この2つの文の意味に差はない、と認識する。「二分可能自然数」の定義として受け入れることができる。

  1. ホゲタンプとは2で割り切れる自然数である。
  2. 2で割り切れる自然数をホゲタンプと呼ぶ。

この2つの文の意味に差はない、と認識する。「ホゲタンプ」の定義として受け入れることができる。

  1. 偶数とは2で割り切れる自然数である。
  2. 2で割り切れる自然数を偶数と呼ぶ。

この2つの文の意味に差はないかどうかは微妙。「偶数」の定義として受け入れられない。

理由:「偶数」という言葉は、既に多くの人が使っていて、国語辞書にも載っている言葉だから。

「△△△とは」の「とは」の解釈が、既知(既に自分が知っている、世間でも使っている、国語辞書にも載っている)語の場合と、未知の語・記号の場合では違う。

△△△が未知の場合

△△△とは …… である。

  • xは△△△である ⇒ xは…… である
  • xは…… である ⇒ xは△△△である

両方OK。例は:

ホゲタンプとは2で割り切れる自然数である。

  • xはホゲタンプである ⇒ xは2で割り切れる自然数である
  • xは2で割り切れる自然数である ⇒ xはホゲタンプである
△△△が既知の場合

△△△とは …… である。

  • xは△△△である ⇒ xは…… である

はOK。

  • xは…… である ⇒ xは△△△である

これは命題であり、成立することが保証されないので、証明を要する。

例は:

偶数とは2で割り切れる自然数である。

  • xは偶数である ⇒ xは2で割り切れる自然数である

はOK。一種の宣言であり、受け入れ可能。

  • xは2で割り切れる自然数である ⇒ xは偶数である

これは命題であり、成立することが保証されないので、証明を要する。つまり、次の命題を証明すべきである。

  • 2で割り切れる自然数は必ず偶数である (証明を要する)

または、

  • xは2で割り切れる自然数である ⇒ xは偶数である (証明を要する)
檜山の感想(分析ではない!)

自分にとって未知の語・記号が定義される場合と、自分にとって(他の多くの人にとっても)既知の語が定義される場合では、解釈が違う、ということらしい。

  • 2で割り切れる自然数はホゲタンプである (証明を要さない、定義として認める)
  • 2で割り切れる自然数は偶数である (証明を要する、提示された命題である。理由:「偶数」は既知の語だから)

しかし、なにを基準に未知・既知を判断するのだろう?

  1. 「ニ分可能自然数」、「ホゲタンプ」は、檜山の造語であり、国語辞書に載っているはずもなく、明らかに未知である。
  2. 「偶数」は既知だろう。
  3. ひらがな書きして「ぐうすう」ならどうだろう?
  4. カタカナ書きして「グウスウ」ならどうだろう?
  5. 「even number」は英語で、日本人にはそれほど馴染みがなく、未知である可能性が高い。
  6. しかし、「even number」は、英語ネイティブの人には既知であろう。日本人にとって「偶数」が既知であるのと同程度に既知だろう。

既知/未知の境界線はどこか?

  1. ホゲタンプとは2で割り切れる自然数である。(明らかに未知)
  2. even numberとは2で割り切れる自然数である。
  3. グウスウとは2で割り切れる自然数である。
  4. ぐうすうとは2で割り切れる自然数である。
  5. 偶数とは2で割り切れる自然数である。(明らかに既知)

あるいは、日本語使用者と英語使用者では、同じ内容を異なる解釈をすべきだろうか? 英語ネイティブにとって、日本語文字(ひらがな、カタカナ、漢字)は全く意味不明だろう。

  1. a hogetamp is a natural number that is divisible by 2.
  2. an even number is a natural number that is divisible by 2.
  3. a "ぐうすう"(Japanese Hiragana) is a natural number that is divisible by 2.
  4. a "グウスウ"(Japanese Katakana) is a natural number that is divisible by 2.
  5. a "偶数"(Japanese Kanji letter) is a natural number that is divisible by 2

以前の「f(x) = x は、関数とは認めがたい、ちゃんと定義されてない」という見解と似てる気もする。

  1. 関数 f(x) = x2 + 3
  2. 関数 f(x) = x + 3
  3. 関数 f(x) = x + 1
  4. 関数 f(x) = x + 0
  5. 関数 f(x) = x

1番目は認められる定義で、5番目は認めがたい。そうすると、認める/認めないの境界線はどこ?

残念ながら僕には不可解なのだが、“ナニカの差”があるのだろう。

檜山の感想 2

僕の想像だから、あてにならないが。

「ホゲタンプ」や「even number」は、知らない語ゆえに、特に何の感情も湧かない。よって、冷静・ドライに定義を受け入れ可能。

しかし、「偶数」は既知の語なので、強い感情が湧き起こる。その感情とは:

  1. 「偶数」は自分も世間も、既によく使っている言葉だ。
  2. しかし、偶数に関して、自分も世間も、真剣に正確に考えたことはない。
  3. 2で割り切れる数は偶数だと、自分も世間も信じているが、それは経験的事実に過ぎず、真理である保証などない。
  4. したがって、ここで改めて、「2で割り切れる数は偶数だ」という論理的な証明をすべきである。

もしこういうことだとすると、「2で割り切れる数は偶数だ」は、自分と世間が共有している予想だと認識してることになる。予想、定義、定理はいずれも命題の形をとるが、

  • 予想の真偽は確定してない。真だろうと思っている人がいるが、証明はない。
  • 定義は、約束により真である。
  • 定理は、証明により真である。

「2で割り切れる数は偶数だ」は、多くの人が真だと予想しているだけの予想命題ではなくて、どこかの段階で約束された定義なのだが、そうは思えない、ということなのだろう。

人が言葉にいだくイメージ・感情というものは、なかなか一筋縄ではいかない。実に複雑怪奇だ。そういう複雑怪奇なイメージ・感情を捨てた議論をするには、論理式で書くのが良いと思うが、それはそれで困難が伴う。

檜山の感想 3

△△△の既知・未知によって、「△△△とは …… である」の解釈が変わるとした場合、個人による既知・未知の差はどうすべきか?

「偶数」は多くの人にとって既知だろうから、「行列式(英語ではdeterminant)」を例にする。山田さんは「行列式」を知らない(未知)。田中さんは既に「行列式」を知っている(既知)。

檜山が「行列式とは、 …… である」という定義を提示した場合、

  • 山田さんにとって、「行列式」が未知の語なので、定義として受け入れる。
  • 田中さんにとって、「行列式」が既知の語なので、「xが、 …… である ⇒ xは行列式である」の証明を要求する。

となると、檜山は「行列式って言葉を知ってますか?」と質問して、

  • 知らないのですね。では、これで定義は終わりです。
  • 知っていたのですが。では、証明しないと納得できないですね。

と態度を変えることになる。これは、「行列式」という言葉特有の問題ではなく、あらゆる言葉の定義で、「知ってますか?」の答えに応じて態度を変えることになる。

以上は、「既知・未知で定義の解釈が変わる」を反駁する思考実験なのだが、このテの思考実験を感情的に受け入れられない、とすると無力。