色気に惑わされる
これは象徴的、あるいは比喩的な絵だ。以下の話も比喩的だ。
ノードと辺(矢印)からなるグラフを色塗りしている。各ノードは別な色にして、辺も塗り分けてある。二通りのルールで、辺を彩色している。どのようなルールかは簡単に推測できるだろう。
色の選び方や塗り分け方には好みやセンスがある。美意識だの政治的な信条とかもあるかもしれない(赤は広島カープの色だとか共産主義だとかナントカいろいろ)。
さて、このグラフにサイクルがあるかないか? あるなら独立なサイクルは何個か? という問題を考えるとしよう。そのとき色は関係するだろうか? 関係するわけない! グラフのトポロジー(形状)しか関係しない。
しかし、なまじ色があると、色を根拠に議論したがる。色は無関係、それどころか色は邪魔、色の議論から得られるものは何もなく不毛だったとしても色から離れられない。人間の理解や認識というものはそんなところがある。
色を忘れて形状だけに注目することは、色の捨象、抽象化となる。その抽象化ができない。「色を忘れろ」「彩色ルールなんてどうでもいい」と達観できないのだ。そして、形状に関する基本的で重要な事実を理解も認識もできない。色気に惑わされて目が曇る。偏見と予断のカタマリだ。もちろん、他人事ではない、自分のことだ。