名前の意義と恐ろしさ
『千と千尋の神隠し』では、名前を奪われたり忘れてしまう事が、自己が喪失する事にように描かれていた(たぶん)。どこぞの民族だか部族だかで、本名は家族親族くらいしか知らず(教えず)、俗名というかあだ名みたいな呼び名を常用するという話を読んだ記憶がある。名前がないものは存在しないも同じだと思うことは多い。古来、言霊信仰なんてのもある。
ある程度の規模のソフトウェアでは、名前の管理に相当な手間を費やす。DNSなしでインターネットは使えない。ドメイン名が訴訟のタネになったり、高価で取り引きされたりする。Catyでも、名前の管理は一番悩むし、かけた労力も半端ではない。
ソフトウェアのメカニズム上も、名前(ID、キー)はもちろん必須だ。まずは参照/名指しに使う。通信で、実体が送れないときに代わりに名前を送ることができる。送り元と送り先で、名前の合意(参照先の一致)が取れていれば、実体を送る必要がない。この技法をキー転送と呼ぼう。
キー転送はものすごくポピュラーな技法で至るところに使われている。僕が最近、恐ろしいと感じたのは、主客転倒、価値の逆転現象だ。キー転送で使うキーは、便宜上のもので単なる手段だ。実体の代理なら何でもいい。だが、キーも名前なので、名前としての価値が生じてしまう。キーがアイデンティティーの一部となる。実体の代理に過ぎなかったことが忘れ去られ、キー=名前が主役となり、手段が目的とすり替えられる。
かくして、実体のあいだの対応や実体の操作が隠蔽される。話は完全に逆だ、隠蔽されるべきはキー転送という方便のほうなのだ。名前が、ほんとに価値やアイデンティティーにつながるものなのか、ポインターやキー転送のようなソフトウェア上の方便/手段に過ぎないのかはよくよく考える必要がある。バカみたいな処方箋だが、その名前を連番やUUIDにしたらどうか? と一度は疑ったほうがいい。