このブログは、旧・はてなダイアリー「檜山正幸のキマイラ飼育記 メモ編」(http://d.hatena.ne.jp/m-hiyama-memo/)のデータを移行・保存したものであり、今後(2019年1月以降)更新の予定はありません。

今後の更新は、新しいブログ http://m-hiyama-memo.hatenablog.com/ で行います。

スノーグローブ現象

ゲーデル化レイフィケーションコンパイルなどはすべて同じこと。バエズのスノーグローブも、(おそらくは宗教的な起源を持つ)手塚治虫が「火の鳥」で示した世界観も同じに思える。

要するに、世界を外部からみる視点と世界のなかに棲む主体からの視点の違いだ。外部から眺める(まー、なかの人からみたら超越者・神だ)は、世界の隅々まで完全に把握できるだけではなくて、世界の一部を、「部分集合として」認識できる。この、外からの視点で捉えられた世界の一部を外的集合とでも呼ぼう。たんに世界の一部(部分集合)だけではなくて、それから直積や無限の合併、内包的制限などにより普通に作られるあらゆる集合も外的集合だ。

一方で、世界のなかに棲むなかの人が把握できるのは、世界内にある個物・個体に限る。複数の個体をまとめたものが個体とみなせるとは限らないので、集合概念は使えない。

世界の外にいる超越者が認識できる外的集合はものすごく(気が遠くなるほど)豊かだが、世界のなかでは個体・個物の認識にとどまるから、そとの人(超越者)となかの人の認識能力の差はとんでもないほど開きがある。にもかかわらず、特定の構造に関しては、見える景色に差がない、というのがスノーグローブ現象だ。

スノーグローブ現象のキモは、たちがよい外的集合は、内部の個体によって“表現できる”ということだろう。この“表現”を、コード化、ゲーデル化、レイファイ、まーなんて呼んでもいい。典型例は、圏CのホムセットC(A, B)、これは明らかに外的集合で、なかの人からはまったく把握できない。が、べき[A, B]はなかの人に見えるモノだ。

1が圏Cの特殊な対象(終対象とかモノイド単位とか)として、A⊆C が、A = C(1, X) のとき、外的な集合Aは、内部の個体Xで表現されると考えてよい。この例では、外的な集合Aが、あたかも「Xのelements、またはpoints」の集合とみなせる。外から見た世界の一部分が、世界内個体で実現され、その個体はなかから認識できる、という構図。

V-圏Cにおいて、C~(A, B) = V(1, [A, B]) として定義される通常圏C~は上記の構図を利用している。[A, B]は個体だが、V(1, [A, B])は外的集合となる。ピノキオから人間を作るカニズムだが、別な言い方をすると、なかの人が見ている擬似的な圏から、そとの世界(人間の世界じゃなくて、むしろ神の国)で認められる超越的な構造を作っている。もっとも、超越的な構造のほうが「普通」で、個物により組み立てた擬似的な圏のほうが偽物あつかいされているが。

カリー化、ゲーデル・コーディング、レイフィケーションは、結局はベキ(指数)のことだ。ベキがあると、外からの視点を完全にシミュレートする内的なレプリカが作れる。外に出ることなく、世界の内部に、その世界自体の完全な模型(ミニチュア)を作れる。模型を操作することにより、なかの人がそとの人とまったく同じ経験をできる。この、「なかにいるのに、そとにいる」がなにか非常に不思議な感じを抱かせるのだろう。実際、これは非常に不思議で、理知的に理解したつもりでも、ほんとの納得感が得られない。外に出ることは不可能なのに、どうして自分は「外にいるのと同じ」とわかるのだろう? いやっ、外のひとが「コイツは俺と同じ経験をしている」と認識する話なのか。ともかく不思議ィ。

外的集合を内部個体化する最も強烈なメカニズムは完備性だ。極限を取る操作はなかからは見えないが、極限対象は個体だから、その個体を指し示してしまえば、なかの人にも極限対象は見える。そして、その極限対象という個体を通じて外的集合(むしろ部分圏や図式)をある程度は把握できることになる。